2014年6月28日 (土)

●時代をつまびらかに語るボタンたち

ファッションを表現する言葉は、モード、ブーム、トレンドなどすべからく「はやりすたれ」を秘めた言葉である。文字通りファッションは時代の流れに翻弄されてきた。国が繁栄すると、ファッションは派手になり、ボタンやバックルの装飾性は華美になる。そしてその大きな波は100年単位で繰り返される。

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18世紀
のフランス貴族たちのファッションは優雅を極め、1715年のルイ14世によるペルシャ使節謁見時の衣装には、1250億円の粒よりダイヤが施され、のちにサン・シモン公は「王はその重荷のために逝去された」と回顧録に残している。服飾史家の中野香織氏は、そのダイヤはボタンに施されたと分析する。ボタンやバックルには惜しみない工芸技術が投与され、ガラスのイミテーションダイヤ「ペーストボタン」や、鋼鉄のダイヤ「カットスチール」などのボタンやバックルで飾られた上衣や靴が、晩餐会や舞踏会の注目を集めた。やがて世紀末のフランス革命により、貴族社会は崩壊し、優雅なボタンやバックルはその存在価値を一瞬で失い、表舞台から姿を消す。

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19世紀
の後半は、イギリスがビクトリア時代を迎え、産業革命に裏付けされた経済の発達を遂げ、ファッションも再び脚光を浴び、黄金期を迎え、装飾性は華美になって行く。最愛の夫アルバート公を早期に亡くした女王は、喪服を長年着衣され、女王のすぐれた容姿とともに黒いファッションが高貴な色として定着し、ジェットを模した「黒ガラスボタン」が一世風靡した。産業革命に後押しされ、ガラスの工芸技術も頂点を極め、世紀末にはビクトリア時代の宝石のようなボタン「ビクトリアンジュエリーボタン(英:Victorian Jewels、米:Gay Nineties)」の登場でファッションは絶頂期、爛熟期を迎えるが、やがてそれも女王の崩御とともに世紀末に終焉を迎える。

20世紀は1968年の五月革命を機に、三宅一生、川久保玲、山本耀司などが世界で認められ、確かな縫製技術とともに日本のファッションが世界を牽引し、90年代のバブルへと導く。貝ボタンセルロイドベークライトなどのプラスティックや、メッキパーツの組み合わせボタンなど、大きなサイズのカラフルなボタンが数多く作られ、バブル期のファッションに彩りを添えた。

このようにファッションが100年のサイクルだとすると、今はどのような位置づけか。

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1867年のパリ万博に幕府が初出展したことは、日本の文化が鎖国を解かれて世界へデビューするきっかけとなり、産業革命の機械化を伴わない日本の手作り工芸品が脚光を浴び、ジャポニズムのブームがアールヌーボーに引き継がれ、やがて今日のほぼ100年前にはアールデコが台頭する。一次大戦の閉塞感からの解放と、バレンシアガやシャネルにより、18世紀以来のキャミソールの締め付けから女性も解き放たれ、1920年代になるとベティーブーブのモデルとなる「フラッパー」と呼ばれる先進的な女性たちがファッションをリードし、服の装飾性は優雅な方向に上って行き、ビジューファンタジー(仏:Bijoux Fantaisie)にゆだねられる。モード誌をバルビエやラブルールのイラストレーションが飾り、狂乱の20年代「レザネフォル(仏:Les Annees Folles) / ローリングトゥウェンティーズ (英:Roaring Twenties)」を迎える。スコット・フィッツジェラルドの小説「華麗なるギャツビー」にその時代は鮮明に描かれている。

ファッションの100年単位の繰り返しを鑑みると、オリンピック招致成功もうなずける。ジャポニズムの再来を呼び起こし、2020年代の東京は、ファッションの中心地足りうる魅力を手にする。

ボタン百物語 その16  by button curator

2012年4月18日 (水)

●卒業式の第二ボタンの起源とは?

毎年卒業シーズンになると取り沙汰される第二ボタンのこと

実は起源はこんなところにありました。

1960年公開の「予科練物語 紺碧の空遠く」(井上和男監督松竹)で、原作の小説「一号倶楽部」(獅子文六)にはない、第二ボタンを女性に渡すシーンが、監督の創作により挿入されました。

この映画の公開から、卒業式に思いを込めて女性に第二ボタンを贈る習慣が始まったと考えられます。

小説で描かれる予科練の軍衣には、前ボタン七つの軍服が採用され、「七つボタンは桜に錨」(若鷲の歌)と歌われるように、予科練生の象徴であり、当時の少年たちの憧れでした。
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<画像は海軍大尉の礼服>

映画では以下のように描かれています。

一号倶楽部は若き予科練生たちの安らぎの場で、自宅の二階を倶楽部に解放していた石渡竹は、予科練生たちの母代わりとして、多くの予科練生に慕われていました。
竹の姪の雛もまた予科練生たちと仲良しでした。

特攻隊志願の予科練生山川は、8月15日朝、終戦を迎える前日に命令によって出撃して行く際、雛に胸の第二ボタンを引き千切って渡したのです。

このシーンは、松山善三の脚本にも〈ボタンを渡す〉としか書いてありません*。

井上監督は、2008年の自伝で、
「追いかけてきたおヒナちゃんと山川が出会う橋の上。
死地に赴く山川には、形見として渡すものは何もない。だから、胸のボタンを千切っておヒナちゃんの手に握らせるんだ。
二人が両手で握りあう一つのボタン、それこそ桜に錨の金ボタンです。
18歳と14歳の〈生死の別れ〉、まあ、ボクの〈純愛表現〉でしょう」*。

また、なぜ第二ボタンかの問いに、
「だって心臓に一番近いボタンでしょ。山川のハートですよ」*と答えています。

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終戦後に残された者たちに、山川が雛に贈った第二ボタンの桜に錨は、多くの思いを去来させたのでしょう。
それが当時の若者に受けて、卒業式に胸の第二ボタンを男性から女性に心をこめて贈るという習慣に発展して行った訳です。

実はこの習慣はブルボン王朝の頃からすでにありました。
貴族達はその上着「アビアラフランセーズ」の華麗なボタンを箱に入れて保管し、心をこめて代々引き継いでいたのです。

* = 映画論叢19=2008年11月20日国書刊行会発行の井上和男氏著「紺碧の空遠く」をめぐって

ボタン百物語 その16  by button curator

2011年9月28日 (水)

●薩摩の"Satsuma"と京都の"Satsuma"

その12で、幕末から明治にかけて輸出されていたサツマボタンについてお話しました。

廃藩置県後、薩摩藩の庇護から放れた薩摩焼の職人たちは、京都や大阪、神戸、横浜などの輸出港近くに移り住み、各地の薩摩焼にかかわって行きます。

Dpp_0483640_2 薩摩焼の特徴の「金襴手」「錦手」は引き継がれますが、「糸ひび」と「金彩」の違いは、本家とそれ以外で、独自の進化をもたらしたようです。

「糸ひび」は、焼き物本体と釉薬の熱による膨張率の違い等から生じるものだといわれています。窯から出した瞬間の温度変化により、一瞬のうちに釉薬に貫入が入るのだそうで、釉薬の調合のほか、温度や湿度の違いも影響大です。また、当時との釉薬の違いから、今現在の薩摩焼も当時の「糸ひび」とは違う貫入が入ります。

この作品は明らかに本家薩摩で焼かれたものとみられ、表面は英語で「ファインクラックル」と絶賛される、ごく細かい糸ひびに覆われていることがはっきりわかります。

「金彩」の違いは、本家は下絵に金泥を用いて輪郭を描きますが、薩摩以外の金彩はそれがなく、その違いは仕上がり後に顕著に表れると聞きます。

Dpp_0021640_4 薩摩は金彩を厚い金泥で表現するため、経年変化に強く、年を経るたびに美しくなるのに比べ、京や神戸などの薩摩は、色絵具の上に金彩を施すため、退色を免れない上に摩擦による劣化も顕著です。

左の作品例は、経年による退色や摩擦により、明らかに金彩が劣化している様子がうかがえます。細かな糸ひびも持ちません。この違いは顕著ですが、現在アンティークボタンとして市場に流通もしくは、コレクションされている薩摩焼と称されるボタンの中で、9割に近い確率で、本家薩摩以外の薩摩ボタンが見られると言います。

当時の京都では、窯元も多様で、小さな窯元も多数存在しましたが、粟田口の錦光山は、大きな規模の窯元でした。その名は海外でも有名でしたが、若い職人たちの流れ作業から生み出される量産品から、高齢でベテランの職人による手彩色の高級品まで、幅広い作風が生み出される中で、錦光山の生み出す薩摩ボタンは、特徴的でした。

Dpp_0496640_2 左の作品例は、裏に「錦光山」の名が入ったものです。全面に彩色がされているので、貫入の細かさの判断はつきませんが、彩色については、将軍家の御用茶碗などの高級色絵陶器を制作していただけに、京都独自の薩摩焼の進化の跡がうかがえる作品です。

現代でも、欧米のボタンコレクターからすると、薩摩ボタンは、同じく日本が世界に誇る彫金細工の「赤銅(Shakudo)」と並び賞される、あこがれのコレクションアイテムなのです。

ボタン百物語 その15  by button curator

2007年8月 5日 (日)

●三つのカメオが語る手工芸品のボタンたち

陰刻に対して陽刻の代表作はよく知られるカメオでしょう。ボタンの世界にもカメオは多く登場します。一口にカメオと言っても、その種類は用いられる素材の種類から、大まかに三つに分類することができます。

057 一つ目は現在でも多く生産され、一般的なカメオとしてブローチなどでもよく見受けられる貝のカメオです。南イタリアのトーレ・デル・グレコと呼ばれる漁師の町が世界唯一の生産地とされています。主な材料のトゥ・カムリ貝は表が白く、内側は茶色のため、その境目をうまく利用して、茶色の土台に白のモチーフを浮き上がらせるように、職人技でカメオを手彫りします。このボタンはイタリアで作られたもので、土台には純金が惜しみなく使われた高級なシェルカメオのボタンで、裏にはPESTELLのバックマークが入ったレア物です。

056 そのトーレ・デル・グレコは、1世紀の噴火でポンペイを飲み込んでしまったヴェスビオ火山の麓です。二つ目のカメオは、ヴェスビオ火山の溶岩石を材料として用いる陽刻のラーヴァカメオです。火山の噴火を考えるとシェルカメオより以前からこの地で生産されていたことは、想像に難くないですね。茶褐色のその姿は土器などの焼き物を連想させ、手彫りのぬくもりと相まって、素朴な味がその魅力でしょう。画像をご覧のとおり、溶岩石の表面に凹凸の深い実直な彫刻が施されています。

055 三つ目は今では博物館でしかお目にかかれない石のカメオです。瑪瑙(めのう)などの輝石の色の違う層を利用して、モチーフを美しく浮き上がらせることが可能でした。ストーンカメオが一番古くからあるとされ、古代エジプトの護符であるスカラベ(ボタン百物語その6参照)がその起源と言う説もあります。ご覧のボタンの中央に配された紅色のカメオは、紅縞瑪瑙(べにしまめのう)を材料にして、その紅色から白に至る積層部分をたくみに生かして利用し、陽刻を施すことでモチーフを見事に浮き上がらせたストーンカメオです。

輝石を利用して古代エジプトを起源に作られたカメオは、その後ルネサンスでよみがえり、エリザベス女王の時代の人々に、ナポレオンボナパルトに、ビクトリア女王に愛されて進化する中で、輝石から溶岩石へと素材を変え、また漁港と言う生産地の立地から貝へと材料が変遷する中で、現在へと脈々と引き継がれてきた手作りのジュエリーのひとつです。

このように悠久の歴史の中で、その輝きを受け継いできた装飾性豊かなボタンたちは、あまたある美術や工芸、技術、はたまた文化や文明など、その時々のあらゆる粋を凝らして作られたミニチュア工芸品なのです。

ボタン百物語 その14  by button curator

●究極の手彫り彫刻 「リバースインタリオ」

彫刻にはいくつかの種類があります。
モチーフを削り出して浮き上がらせる陽刻(浮き彫り)にたいして、陰刻はモチーフを凹で表現します。将棋の駒や玄関の表札に見られる様式で、沈み彫りやインタリオと呼ばれています。

陰刻のインタリオを透明なものに施すと、そのモチーフは裏から見ると浮かび上がって見えます。これはリーバースインタリオと呼ばれ、水晶やガラスを裏から彫ってモチーフを表現した、崇高な彫刻手法の一つです。

英国貴族は狩猟を趣味として勤しんでいたため、18世紀から19世紀にかけて、猟犬や獲物の狐、鹿、鳥などをモチーフにしたハンティングボタンと呼ばれた狩猟クラブのボタンが数多く作られました。

120a このボタンは18世紀のハンティングボタンの代表作で、ガラスを彫刻して彩色しモチーフを浮き上がらせたものです。半球型のガラスを裏側から特殊な彫刻刀で削り、その凹み部分に彩色を施すことで柄が浮き上がって見えるように作られたリバースインタリオの秀作です。

120b イギリス貴族はお抱えの彫刻職人に、その報酬に糸目を付けずに腕前を発揮させ、このようなボタンを身につけることで自身のステイタスとしていたのです。一つ一つが手作りのため、狐の表情に微妙なニュアンスの違いが見られ、そのことがまたこのボタンに心温まる趣を与えています。

ハンドバックも腕時計も世に無かったこの時代に、ボタンは貴族のステイタスとしてその存在をアピールしていました。

ボタン百物語 その13  by button curator

2007年7月16日 (月)

●世界で知られる日本ブランド“サツマボタン”

安土桃山時代に九州地方に伝わった数多い焼き物の中で、「薩摩焼」には輸出専用の「サツマボタン」がありました。薩摩藩の手厚い庇護のもと、藩の御用窯で焼かれた「サツマボタン」は、日本のボタンとして世界で知られるメイドインジャパンブランドです。

安土桃山時代から日本美術を支えた御用絵師集団「狩野派」や「土佐派」に変わり、江戸中期の元禄年間には、上方や江戸の町人階級が経済的実力を蓄え、元禄文化の担い手として、日本美術の創造に尽力します。

京都では、俵屋宗達に傾倒した尾形光琳がその作風をさらに発展させ、数々の名作を世に送り出しています。一方、江戸では新たな文化として浮世絵が台頭する時代です。薩摩藩は御用絵師をこの時代の伝統的気風の強い京都画壇に派遣し、絵付けの勉強をさせます。

藩の手厚い庇護もさることながら、このような研究熱心な陶芸職人たちの精進により、薩摩焼は独自の新しい境地を開拓していきます。

幕末、生麦事件に端を発する薩英戦争は、その和解後に薩摩は攘夷が有名無実なことを知り、イギリスは幕府支持を切り替えて薩摩藩に接近し、両者は友好を深めます。

071そして迎える1867年のパリ万博、薩摩藩は幕府とは別のブースで「日本薩摩琉球国太守政府」として独自に出展、薩摩焼が世界ブランドへ成長する瞬間です。ヨーロッパが産業革命による機械化で、石炭の黒い煙とつらい労働に疑問を持ち始めた中で、手作りによる崇高な芸術品として薩摩焼の特徴である「錦手」や「金襴手」、「糸ひび」などが高く評価され、そのブームは「ジャポニズム」へと発展します。

イギリス中心のヨーロッパ各地へ輸出された「サツマボタン」でしたが、明治維新後の廃藩置県により藩の庇護がなくなると、急速に衰えてしまいます。そして、代わって京都や大阪で焼かれた「京薩摩」がその遺志を引き継ぎました。

ボタン百物語 その12  by button curator

2007年7月15日 (日)

●現存する日本最古のボタン

前に書きましたが、日本にボタンが伝わったのは、鉄砲伝来の時期です。実はこの時期のボタンが熊本にある加藤清正の菩提寺「本妙寺」に伝わっています。

加藤清正の母親は、秀吉の母親といとこ同士のということから、清正は秀吉子飼いの武将と成り、後の九州征伐に加わり、肥後半国二十五万石を与えられ、熊本城主と成ります。

このころ秀吉は信長を引き継いで南蛮貿易を進めていたことは明らかで、何らかの褒美として、清正が秀吉から、南蛮渡来の上着を賜り、それが本妙寺に保管されていたと考えて何の不思議もないでしょう。

2上着には、布地と友布の絹のくるみボタンが、前たて部分と袖部分に数多く使用されています。手縫いで丁寧に仕立てられた上着は、ボタンホールも手刺繍で仕上げられ、ボタン部分の裏もしっかり補強された、つくりのいいものです。

日本で作られたとは考えにくいので、前述のように、南蛮渡来の高級品と考えて間違いないと考えます。

ボタン百物語 その11  by button curator

●イタリアの職人技、ミクロモザイクボタン

古代美術様式のひとつであるモザイクは、メソポタミアの古代文明が起源で、16世紀のルネサンス時代に、教会や神殿の装飾のためにイタリアで復活し、素材も技法もまったく異なった二つの様式に進化を遂げます。

そのひとつの「ローマンモザイク」は、金属の土台に色のついたガラスの小片を数多く並べてモチーフを描き出す手法で、16世紀のバチカン内にモザイク工房が設立されました。ローマンモザイクは、色ガラスを人工的に着色することで、多彩な色の表現が可能なことが特徴です。

050このボタンは、直径2センチほどの純金の土台に、色ガラスの小片を500ピース近く並べることで、鳩を描き出しています。ガラスは各種の色を束ねて熱した上で引き伸ばすと、ミルフィオーリと言う色彩豊かな装飾品を作り出すことが可能ですが、このボタンでは周囲に部分的にミルフィオーリが使用はされているものの、主要部分はミクロモザイクにこだわって作られた秀逸な作品です。

もうひとつのモザイクは、メジチ家のコジモ一世などの支援により職人が招聘され、フィレンツェで栄えた「フローレンスモザイク」です。エイゲイトやラピスラズリ、オニキスなどの半貴石を精密にカットし、黒の大理石の土台に細密に組み込まれてモチーフを描きました。

098_1このボタンはイタリアの名所旧跡が描かれたもので、18世紀のイギリス貴族の子息たちが修業の仕上げに、ヨーロッパ各地を回遊したグランドツアーの土産に使用されたことから、「グランドツアーボタン」とも称されています。

いずれの様式も商業的にも成功して、現代でもアクセサリーなどが作られています。

ボタン百物語 その10  by button curator

●ボタンとボタンホール

十字軍の遠征のころに、ボタンホールがヨーロッパに伝わったと言われています。

このころの欧州人はまだ、袖や合わせのない、上からかぶる様な服を着ていました。それに比べると西アジアの人々は、その時代にすでに、ワイシャツの原型となった「ガラービア」という、袖もボタンもついた服を着ていました。

一説によるとボタンホールは南フランスで作られ始めたとも言われますが、十字軍の遠征により西アジアから伝わったと考えるほうが無理がないでしょう。

ボタンホールがない時代に、欧州人たちはどのようなボタンを使っていたのでしょうか?

ダッフルコートには、「トグル」もしくは「ダッフルボタン」と言われる、生りの大きいボタンがついています。これらのボタンはボタンホールを使用することなく、ボタンは紐やチェーンで服に留められることから、この形になったわけです。

Andalbb16~17世紀にかけて、オランダやスペインの南部アンダルシア地方で使われていたボタンは、「トグルボタン」や「アンダルシアボタン」と呼ばれ、このボタンのように本体に細いバーが取り付けられ、現代のボタンホールとは違って一文字ではなく、ただの服に開いた穴に、ボタンではなく足を通して服を留めていました。今のカフスボタンを思い浮かべていただければ、その使用方法は明らかです。12世紀ごろにはヨーロッパに伝わったものの縫製が難しく、ボタンホールはなかなか普及しなかったことがわかります。

003ボタンホールに通す必要がないので、ほとんど球体に近い厚みのある装飾性豊かなボタンが多く作られ、男性貴族たちの豪華な衣装を装飾していました。このボタンは「ハンガリアンボタン」と呼ばれ、その特徴は、ルビーやターコイズ、エメラルドなどの宝石がちりばめられていたことです。

技法も複雑で、「寄せもの細工」と呼ばれ、立体的にカーブさせたメタルのパーツを何枚か寄せ合わせた球状に仕上げたもので、中は中空でした。透かし彫りが施されているため内部まで見通せる事から、細密に仕上げられた究極の職人技のボタンでした。

ボタン百物語 その9  by button curator

●日本語の「ボタン」とは?

日本は着物の文化です。着物を留めるのは紐や帯で、ボタンと着物は結びつきません。

では、「ボタン」という言葉はいつ頃から日本人に定着し、「ボタン」の存在が日本人の周知するところになり、日本の文化や生活と結びついたのでしょうか。

日本人が最初にボタンに接したのは、鉄砲伝来の頃にさかのぼります。鉄砲を日本に持ち込んだのはポルトガル人ですが、当時から当然ボタンのついた服を着ており、外来語としてポルトガル語が元になった、襦袢やタバコとともに、この頃に「ボタン」も日本に伝わったわけです。

江戸の中期には、儒学者貝原益軒や、政治学者新井白石の書籍にボタンが登場します。故実家伊勢貞丈(1717~84)の「安斎随筆」には、“和蘭国にてはコノブと言ふ、ポルトガル国にてはブタンと言ふ、それを言ひたがえて日本にてボタンと言うなり”と言う記載があります。江戸後期には、庶民もボタンを認識していたと考えていいと思います。

ところが、「ボタン」と言う表記は定まりませんでした。今の中国では「紐扣や扣子」と表記され、台湾では「紐釦や釦子」と書かれます。

Photo明治3年、西洋式の軍服が初めて採用され、当時の太政官布告により、ボタンのことまで詳しく記載される中で、その表記は、服に開いた口に、金属でできたボタンを通すと言う意味から、「紐釦」の一文字を当時の兵部大輔、大村益次郎(1824~1869)が採用して、「釦」と表記し、現代に至っていると言われています。

森鴎外は、20年も忘れ去られた金ボタンによせる思いを、詩にまとめていますが、その表記は、「扣釦」としています。

その後も「紐釦」「釦」「扣」と、表記は定まりませんでしたが、現在ではボタンを漢字で書く場合「釦」と表記しています。

さすがに、中原中也の時代になると、彼の詩「月夜の浜辺」の中でも「ボタン」と表記されるようになりました。そのまま現在に至っています。

ボタン百物語 その8  by button curator

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