●世界で知られる日本ブランド“サツマボタン”
安土桃山時代に九州地方に伝わった数多い焼き物の中で、「薩摩焼」には輸出専用の「サツマボタン」がありました。薩摩藩の手厚い庇護のもと、藩の御用窯で焼かれた「サツマボタン」は、日本のボタンとして世界で知られるメイドインジャパンブランドです。
安土桃山時代から日本美術を支えた御用絵師集団「狩野派」や「土佐派」に変わり、江戸中期の元禄年間には、上方や江戸の町人階級が経済的実力を蓄え、元禄文化の担い手として、日本美術の創造に尽力します。
京都では、俵屋宗達に傾倒した尾形光琳がその作風をさらに発展させ、数々の名作を世に送り出しています。一方、江戸では新たな文化として浮世絵が台頭する時代です。薩摩藩は御用絵師をこの時代の伝統的気風の強い京都画壇に派遣し、絵付けの勉強をさせます。
藩の手厚い庇護もさることながら、このような研究熱心な陶芸職人たちの精進により、薩摩焼は独自の新しい境地を開拓していきます。
幕末、生麦事件に端を発する薩英戦争は、その和解後に薩摩は攘夷が有名無実なことを知り、イギリスは幕府支持を切り替えて薩摩藩に接近し、両者は友好を深めます。
そして迎える1867年のパリ万博、薩摩藩は幕府とは別のブースで「日本薩摩琉球国太守政府」として独自に出展、薩摩焼が世界ブランドへ成長する瞬間です。ヨーロッパが産業革命による機械化で、石炭の黒い煙とつらい労働に疑問を持ち始めた中で、手作りによる崇高な芸術品として薩摩焼の特徴である「錦手」や「金襴手」、「糸ひび」などが高く評価され、そのブームは「ジャポニズム」へと発展します。
イギリス中心のヨーロッパ各地へ輸出された「サツマボタン」でしたが、明治維新後の廃藩置県により藩の庇護がなくなると、急速に衰えてしまいます。そして、代わって京都や大阪で焼かれた「京薩摩」がその遺志を引き継ぎました。
ボタン百物語 その12 by button curator