●薩摩の"Satsuma"と京都の"Satsuma"
その12で、幕末から明治にかけて輸出されていたサツマボタンについてお話しました。
廃藩置県後、薩摩藩の庇護から放れた薩摩焼の職人たちは、京都や大阪、神戸、横浜などの輸出港近くに移り住み、各地の薩摩焼にかかわって行きます。
薩摩焼の特徴の「金襴手」「錦手」は引き継がれますが、「糸ひび」と「金彩」の違いは、本家とそれ以外で、独自の進化をもたらしたようです。
「糸ひび」は、焼き物本体と釉薬の熱による膨張率の違い等から生じるものだといわれています。窯から出した瞬間の温度変化により、一瞬のうちに釉薬に貫入が入るのだそうで、釉薬の調合のほか、温度や湿度の違いも影響大です。また、当時との釉薬の違いから、今現在の薩摩焼も当時の「糸ひび」とは違う貫入が入ります。
この作品は明らかに本家薩摩で焼かれたものとみられ、表面は英語で「ファインクラックル」と絶賛される、ごく細かい糸ひびに覆われていることがはっきりわかります。
「金彩」の違いは、本家は下絵に金泥を用いて輪郭を描きますが、薩摩以外の金彩はそれがなく、その違いは仕上がり後に顕著に表れると聞きます。
薩摩は金彩を厚い金泥で表現するため、経年変化に強く、年を経るたびに美しくなるのに比べ、京や神戸などの薩摩は、色絵具の上に金彩を施すため、退色を免れない上に摩擦による劣化も顕著です。
左の作品例は、経年による退色や摩擦により、明らかに金彩が劣化している様子がうかがえます。細かな糸ひびも持ちません。この違いは顕著ですが、現在アンティークボタンとして市場に流通もしくは、コレクションされている薩摩焼と称されるボタンの中で、9割に近い確率で、本家薩摩以外の薩摩ボタンが見られると言います。
当時の京都では、窯元も多様で、小さな窯元も多数存在しましたが、粟田口の錦光山は、大きな規模の窯元でした。その名は海外でも有名でしたが、若い職人たちの流れ作業から生み出される量産品から、高齢でベテランの職人による手彩色の高級品まで、幅広い作風が生み出される中で、錦光山の生み出す薩摩ボタンは、特徴的でした。
左の作品例は、裏に「錦光山」の名が入ったものです。全面に彩色がされているので、貫入の細かさの判断はつきませんが、彩色については、将軍家の御用茶碗などの高級色絵陶器を制作していただけに、京都独自の薩摩焼の進化の跡がうかがえる作品です。
現代でも、欧米のボタンコレクターからすると、薩摩ボタンは、同じく日本が世界に誇る彫金細工の「赤銅(Shakudo)」と並び賞される、あこがれのコレクションアイテムなのです。
ボタン百物語 その15 by button curator
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